「新しい歴史教科書をつくる会」を覚えているだろうか?
当時は、歴史教科書に「従軍慰安婦」が記述され、「南京大虐殺」が記述され、いわゆる自虐史観全開の時代であった。
その時代に、真実の歴史を教科書に記述しようと言う運動が起きて、新しい(真実の)歴史教科書をつくる為に有志が集まって発足した会である。
分り易く言えば、「今で言う在特会やチーム関西」って扱いであった。
しかし、今、日本で「新しい歴史教科書をつくる会」が極右の勢力なんて、誰が言ってるだろうか?
その時は、もっとも右に位置したかもしれないから、「極右」とレッテルされたが・・・
要するに、更に右の位置に誰かが登場すれば、その時から「極右」ではなくなるし、相対的に「左」になってさえしまうw
ある現象が起きている。
今まで、在日連中が「私達は日本社会で差別をされて来た」と言って来た。(今でも言ってると思うが)
本当にそれなら、「ウリ達を差別する日本人と仲良く出来ない」と言いそうなものだが、最近では「仲良くしたい」と言っているw
ここに「差別の相対化」が現れたwww
「良い朝鮮人も、悪い朝鮮人も殺せ」と言うプラカードや、「鶴橋で大虐殺するよ」などの発言が物議を醸したが、その結果として、「チョンコを殺せ」と言わない人達は、それだけで「差別をしていない人」に相対化されたのであるw
先日、仲良くしようぜパレードが開催されたが、「レイシスト以外の人」は全て受け容れられていた。
いつしか、在日は「日本社会が在日を差別している」から「日本社会の中で差別しているのは在特会だけ」になったのであるw
10年前だったら、「日本人は全てレイシスト」認定だったはずだ・・・w
もしも、日本にアウシュビッツが建設され、チョンコが殺処分されるようになれば、「朝鮮人を殺す奴は差別主義者だが、在特会は殺さないから差別主義者ではない」に相対化されるだろう。
この事は、ある逆説すらも導き出している。
今では、差別でもないと思われている事が、大きな差別がなくなるにつれて、差別に昇格していく・・・って現象を
「差別はよくない」と言う言葉が水戸黄門の印籠のように威力を持って、日本は差別を是正し続けて来た。
日本で差別を探せと言われたら、見つけるのに一苦労する位にwww
どうなったか!?
今でも、日本には差別がある。と批判を受けているw
しかし、実際には「そんなもん、差別でも何でもないじゃろw」みたいなものが、いつしか堂々と「差別」と扱われている。
もう、運動会で1等賞があるだけで「差別」になっとるwww
「差別」を無くそうとすれば、いつしか、「完璧な平等じゃないもの全てが差別じゃーー!」になって、逆にありとあらゆるものが「差別」に昇格されて、恐るべし「差別だらけの社会」になってしまうぞwww
今、女性に「綺麗な白い肌だね」と誉めても、セクハラが成立する。
身体的特徴を捉まえての「評価」だからだw
黒人に「黒い肌は嫌い」と言うのが差別で、白人に「白い肌は好き」と言うが差別じゃないのが、差別だと言うような理屈・・・
又、本人が「白い肌」をポジティブに考えているとも限らない、本人は日焼けした肌(ガングロとか)が美しいと思っていて、白い肌にコンプレックスを持っている場合もある。
究極的になると、性同一性障害とかの人間がいるので、「綺麗な女性だ」と言っても、相手が「その発言で私は心が傷付く」とか言うのも成立する。
30年前に、男がミニスカートをはいて歩いていたら、子供をつれているお母さんは、子供をだっこして避難していたはずだが、今はそれが「差別」となる時代だwww
部落解放同盟って組織があるけど、もうなくなってしまった「部落差別」の為に、必死に差別を求めているw
もう「被差別部落差別は(ほぼ)なくなったので、我々も解散します」って言えば、全て終るはずだが、「まだ、ある」と言い張って差別を必死に温存させようとしている。
それは、差別は儲かるから・・・
本当に「差別」を無くしたいなら、馬鹿が何も考えずに「差別やめろ」と叫んでいるだけじゃ無理だし、むしろ、差別を生み出す事になってしまう。
【投稿者】
川西大了
【注意】
活動の告知ではありません。
ミクシーにて全体公開で書いた日記の転載です。