もしも自分がサリンの被害に遭ったとしよう。それで重篤な後遺症が残り、もう、自分で歩く事も話す事も出来なくなったとしよう。
当然、犯人は憎いだろうし、死刑にしてくれと望むだろう。
さて、その犯人が捕まってすぐに「自分は取り返しのつかない事をしてしまった。反省している。被害者の方にお詫びしたい。事件のニュースを見て苦しんでいる被害者を見て、持っていた解毒剤を持って病院に駆けつけて救ってあげたかった。でも、それが出来なかった。」とか言って号泣されたら、私なら「こんな覚悟も信念もない下衆の意味の分からん犯罪の被害に俺は巻き込まれたのか・・・」と悔しくで堪らんだろう。
新実のように「神の教えに従った行為である。これは救済の手を差し伸べたのだ。何も恥ずかしい事も、間違った事も犯していない」と堂々と主張されれば、それで許せる訳ではないが「敵にやられたのだから、仕方ない」と諦めが付くだろう。
喩えが悪いかもしれんが、犬に吼えられても腹が立ったりしない。だって、犬は吼えるものだし、犬にとっては、知らない人間を見て吼えるのは良い事でもある。
しかし、チョンコに吼えられたら腹立つ。
もしも、原爆を投下したアメリカが、戦後すぐに「取り返しのつかない事をしてしまった。日本人の皆様に申し訳がない。苦しんでいる人達を見て、アメリカは総力を広島・長崎に送り込んで、被害者の救済をしたかった。救済に駆け付ける事が出来なかった私たちも苦しかった。被曝して苦しんでいた人達も苦しかっただろうけど、原爆を落としてしまったアメリカももっと苦しい思いをした。」とか訳ワカメな事を言ったら、もう一度、戦いが始まっただろう。
るろうに剣心って漫画じゃないが、「弱ければ死ぬ」「無用心な奴も死ぬ」「運がない奴も死ぬ」って事だ。
「落ち度がない限り死なない」なんてルールを神は造っていない。落ち度がなくても、人は時として、災害によって死に、犯罪によって殺され、そして、戦争によって殺される事がある。
オウムの場合は、個人的には内乱と言う認識である。
被害者に落ち度はないが、落ち度があろうが無かろうが、死ぬ時は死ぬ、殺される時は殺される。
水と平和はただ、と信じている日本人の価値観が間違っているのだ。
オウムの内乱に巻き込まれて殺された被害者にとって、新実のような「本当の敵」こそ、この事件の救いじゃないだろうか?
ただ、残念なのは、その親玉が新実のような確たる信念を持つ「本物」でなかった事だ。
散々、偉そうな事を言っておきながら、起訴された途端に「在特会とは私も戦っている。反在特会の仲間同士だ」と敵に擦り寄り、敵に擦り寄る為に仲間の街宣に妨害までかけてくる。
戦後に「ウリ達も日本と戦っていた。だから、日本に勝った戦勝国の人間ニダ」とか言い出したチョンコを彷彿とさせる御仁もいたが、新実死刑囚、立派である。
敵ではあるが、敬意を表する事が出来る男である。
【投稿者】
幻想に任せる